母の一生:エピソード5

娘を病気で亡くしたショックで、母はしばらく何をやっても手につかない状態でいました。心に大きな傷を負った彼女にとって、生活は重荷と化しました。しかし、2年後、奇跡が起こりました。彼女は妊娠していることに気付いたのです。今度は、2つ年上の姉に相談することができ、その支えが彼女に心の余裕をもたらしました。

 

臨月になり、母はお腹の中に待望の子を抱えて入院しました。その瞬間、彼女の顔には幸せな微笑みが広がり、母親としての新たな役割に胸を躍らせました。娘が生まれ、彼女の生活に新たな光が差し込みました。母は、この小さな存在に何でも与え、何よりも愛情を注ぎました。その結果、彼女の心は平和と幸福に包まれました。

 

しかし、家事全般、掃除、食材の買い出し、食事の支度など、母は相変わらず一人でこなしていました。そんなある日、朗報が届きました。二槽式洗濯機が手に入り、母の手荒れが減少しました。この小さな変化が彼女にとって大きな助けとなりました。

 

そして、娘のわがままが始まりました。彼女は「お姉さんが欲しい」と口にし、母は考えました。無理になるかもしれませんが、もう一人の子供をつくることにしました。娘が5歳のとき、男の子が産まれました。それが私「かいごの木」です。誕生には驚くべき出来事が伴いました。

 

私、かいごの木が産まれた日、母は臨月でありながら田んぼで作業をしていました。お昼時間になり、近くの小川で母は、用を足していると、予想外のことが起こりました。彼女は気づいたのです。赤ちゃんの頭が出てきていたのです。急いで家に戻り、近所の産婆さんを呼んで出産が始まりました。近くにいた姉も居合わせ、生まれた瞬間、おしっこがすぐに出たと言っていました。

 

男の子が生まれ、姉は非常に残念がりました。期待した女の子ではなく男の子だったからです。引き続き、父は子供の世話をほとんどすることなく、代わりに母は、兄姉と私の世話を一身に引き受け、愛と絆で家族をつなぎとめました。

 

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エピソード6に続きます。

母の一生:エピソード4

この物語は、母親の知的障害という困難に立ち向かいながらも、家族との愛と絆を通じて勇気を持ち、幸福を見つける過程を描いています。

 

母はおじいさんとの関係が険悪で、時折口論や喧嘩が勃発し、子供たちと実家に逃げることを繰り返していました。その際、父は母親を支えるどころか、黙って見守るだけでした。

 

母を支えず、父は車に乗ってどこかへ行き、夜遅くまで帰らないことがありました。しかし、母を慰めてくれたのはいつも曾おばあさんでした。彼女は泣いている母親に優しく声をかけて、「我慢していれば、いつかきっといいことがあるから」と言って励ましていました。そして、2年後には第二子が生まれました。

 

離婚話も浮上しましたが、母親は出産を迎えました。第二子も市内の大きな病院で生まれ、女の子でした。彼女はすくすくと成長し、3歳になったある日、病気にかかりました。入院しましたが、1週間も経たないうちに亡くなってしまいました。お墓に埋葬する際、娘が使っていたおもちゃも一緒に埋葬されました。

 

その後、母親はやる気をなくし、娘のことを思い続けて泣き続けました。しばらくの間、実家に戻り、心を癒す時間を過ごしました。半年が経ち、やっと気持ちが立ち直り、父親のもとに戻りました。しかし、リンゴの選果場での仕事、掃除、家族全員の洗濯、食材の買い出し、畑仕事は変わらず続いていました。亡くなった娘の心の傷が癒えた、更に2年後、妊娠していることに気づきました。

 

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エピソード5に続きます。

 

母の一生:エピソード3

母親の勇気と家族の絆

 

人生には試練と奇跡が交差する瞬間があります。

母親の知的障害という困難に立ち向かうお話です。

 

母は知的障害を抱えながらも、家族のために尽力し、愛情を注ぎ生活をつづけてきました。しかし、ある日、彼女は初めての妊娠に気づきました。この驚きと喜びの瞬間は、彼女にとって新たな挑戦の始まりでした。

 

彼女は、継母に相談することもできず、夫にも相談できないまま、孤独にその時を過ごしました。しかし、運命は彼女の味方であり、異変に気づいたのは曾おばあさんでした。そこで初めて妊娠について相談し、初めての子供ということもあり、彼女は大事にされました。出産についても近くの大きな病院で支えられ、その不安な時期を乗り越えました。

 

そして、遂にその日がやってきました。第一子が男の子として生まれ、新しい生命が彼女の世界に訪れました。この子供は、彼女にとっての生きる希望であり、幸せの象徴でした。母親としての新たな役割が、彼女に勇気と力をもたらしました。

 

しかし、この喜びの瞬間にも新たな挑戦が訪れました。夫の兄弟が結婚し、弟一人が独立し家を出ることになりました。それでも彼女の負担は重いままです。彼女は母親としての自分を信じ、子育てに専念しました。実家に戻り、1か月間子供に囲まれて過ごす幸せな日々が彼女に訪れたのです。その間は、実家にいても、何もしなくてもよく、幸せでいっぱいでした。

 

しかし、1か月が経過し、母親は夫の元に戻らなければなりませんでした。そこで再び厳しい生活が始まりました。おじいさんとの関係が悪く、時折言い争いや喧嘩が起こり、子供を連れて実家に戻ることが繰り返されました。この時、父は母親に対して何のフォローもせず、黙って見守るだけでした。

 

この物語は、母親の知的障害という困難に直面しながらも、彼女が家族との愛と絆を通じて勇気を持ち、幸せを見つける過程を描いています。

 

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エピソード4に続きます。

母の一生:エピソード2

リンゴの選果場で働いていた母の話から始まります。

彼女は若くして仕事に慣れ、21歳の時、お見合い話が出ました。お相手は、隣町に住む6歳年上の男性でした。しかし、このお見合いの背後には、驚くべき出来事がありました。

 

後から分かったことですが、父は母の姉を見かけ、彼女に惹かれました。

しかし、母の姉は既に結婚相手が決まっていたため、父は彼女に近づくために妹である母とお見合いをすることを決意したといいます。

 

お見合いの際、母の両親は、絶対に結婚して欲しいという思いから、まとまった現金を母にもたせたと言われています。その理由は、母に「知的障害」があったためでした。障害があったために、これを逃すと嫁の行きてがないと考えたようです。

 

母と父は結婚し、父は家族の長男であったため、両親と共に同居生活を始めました。家族構成は、曾じいさん、曾ばあちゃん、おじいさん、おばあさん、夫、夫の弟2人、妹1人、母を合わせて9人でした。

 

当初、家には洗濯機もなく、母は家族全員の衣類を手洗いしなければなりませんでした。掃除も1人で行って言いました。誰も助ける人は居なかったそうです。

 

農家であるため、米や野菜も栽培し、料理も9人分を一人で作らなければなりませんでした。その中で、母が心を込めて料理を作る一方で、味付けの違いから、おじいさんからの怒りも受けることが多かったそうです。ひどく怒鳴られると、母は逃げ出し小屋で子供のように「わんわん」大声を出し一人泣いていたようです。しかし、母は決して希望を失わず、愛情を込めて家族のために尽力しました。

 

金銭の計算が得意でなかった母は、貯金通帳を父が管理しました。光熱費、上下水道費、税金などは農業収入から支払われましたが、食費などは母一人の収入で賄われました。時折、食費が足りなくなっても、父からの援助は受けなかったと言われています。母の負担は非常に重かったでしょう。

 

母は知的障害を抱えながらも、家族のために尽力し、愛情を注ぎました。

 

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エピソード3に続きます。

母の一生:エピソード1

母は、昭和11年、田舎の農家で生まれ育った母は、兄弟の中でも3番目に生まれました。彼女の家族には、兄2人、姉、そして腹違いの妹がいました。しかし、現在、彼女の妹だけが生き残っています。母が3歳のとき、産みの母親がわずか40歳にして病気で亡くなりました。これが彼女の人生に影響を与えることとなります。

 

継母によって育てられることとなった母は、特に妹が生まれると継母からのいじめに遭うようになりました。母の父親が見ていないところで、継母がイライラして、理由なく母を殴ったり、妹の世話を母に押し付けたりしました。母は小学校に通う際、妹を背負わされ、妹がオムツにおしっこをするとクラスに尿臭が広がるため、廊下に出てオムツを替えることもあったそうです。妹がお腹が空き泣くとクラスのみんなに迷惑が掛かることから、泣く度に家まで帰っていたそうです。

 

このような過酷な状況の中で、母は生まれながらに「知的障害」があったようです。そのため、勉強する余裕もありませんでした。掛け算の九九すら覚えられず、クラスの仲間から取り残されました。

 

小学校3年生のとき、母の人生に重大な出来事が起こりました。クラスにいたずら好きの男の子が、母が座っている席で母の左耳の近くで膨らませた紙袋をたたき割り、大きな音を出して驚かせようとしました。しかし、その結果、母の左耳の鼓膜が破れてしまい、彼女はほとんど聴力を失ってしまいました。この出来事は彼女の人生に大きな影響を与えました。さらに、兄弟からの援助も受けられず、中学校に進学する際に勉強についていけない状況に直面し、卒業することができませんでした。

 

母以外の兄弟は成績が優秀で、継母からのいじめを受けることはありませんでしたが、母だけはその標的でした。勉強ができないことから、兄弟からバカにされることも少なくありませんでした。母は中学校を卒業できなかったため、特別に14歳からリンゴの選果場で働くことになりました。

 

彼女の人生は困難な状況に包まれていましたが、彼女の心には強さと決意が宿っていました。彼女は知的障害と聴力の損失にもかかわらず、家族や社会からの困難を乗り越えて生きてきました。彼女の苦境は、彼女の信念と意志力を鍛え、彼女は生活に希望と喜びを見出すことができました。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

エピソード2に続きます。よろしければ、続きもお読みいただけたら幸いです。